DSD256黎明期、私たちは何を聴いていたのか
DSD256録音の昔話とついでに機器の宣伝

トップウイング 菅沼です。

DSD256録音という言葉も、今ではすっかり珍しくなくなりました。
対応機器も増え、録音・再生ともに特別なものではなくなっています。

ただ、少し前までは違いました。DSD256は未来のフォーマットであり、特に録音においては実際に扱える人はほとんどいなかったと思います。そして振り返ってみると、DSD256という規格そのものよりも、ある1個のADCチップの音を、私たちは聴いていたのではないか、そう思うのです。

この記事では、DSD256録音が登場した背景と、その中心にあったADCチップ=ARDA Technologies AT1201について、当時の体験を交えながらまとめてみます。

・ARDA Technologies

AKM、ESS、TI、オーディオ向けADCチップ, DACチップと聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのはこのあたりでしょう。。ARDA Technologies(以下ARDA)は、それら歴史のある半導体メーカーではなく、いきなりDSD256出力可能なADCチップ、AT1201を引っ提げて登場した新興メーカーでした。

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自分がARDAを知ったのは、2010年にProfusionというEU圏内では有数の半導体商社が取り扱いを開始したというニュースからでした。Profusionは、絶対的に需要が小さくなってしまったオーディオ周りの、しかも高級チップを数多く抱え、また少量からでも取引可能ということでEU圏内のオーディオメーカーが数多く利用している商社です。

当時の資料を見る限り、ARDAは、米カリフォルニア本社、ファブレス企業、2006年創業とのことです。その後2011年にGoogle(Alphabet)に買収され、創業者はAIやビデオコーデック関連の業務に移ります。さらに2018年にはFacebook(Meta)からヘッドハンティングされます。結果としてARDAは新規チップ開発を行わず、AT1201を細々と出荷する会社になっていきました。

資料には、R-2R方式DACチップ、AT1401の計画も残っています。TI PCM1704以来のR-2R方式のDACチップであり、もし実現していたらDACの歴史は少し違っていたかもしれません。 もっとも、大手IT企業による人材の青田買いを前に、そんな、もしも、は簡単に消えてしまったわけです。

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・あのMergingがAT1201採用!

いくら性能が良いチップが出たとしても、採用する製品がなくては日の目を見ません。当時は、オーディオ向けのミドル~ハイエンドADCチップと言えばAKMが圧倒的なシェアを握っていた時代です。今でこそESSのADCチップは採用例が増えましたが、AKMの延岡工場火災による供給難で機器メーカーが一斉にESSに鞍替えしたという特殊事情によるものでした。当時はAKM以外にもTI PCM4222、ESS 9102という優れたADCチップがありましたが、TI PCM4222はAudio Precisionのオーディオアナライザ、Antelope Pure2、PS Audio NuWave Phono Converterに採用されたぐらい、ESS 9102はM2TECHぐらいだと思います。

そんな中で、ARDA AT1201を採用すると発表したのがMerging Technologiesでした。 Mergingといえば、DSD録音・編集・再生が可能なDAW・Pyramixと専用のMykerinosシステムをラインナップするDSD制作の中核を担っていたメーカーです。同時代にはSONOMAやSADiEも存在していましたが、実質的にはMerging一強といってよい状況でした。

そのMergingが、従来のMykerinosシステムを切り捨て、RavennaベースのAoIPとMassCoreシステムを採用したHorus / HapiでDSD256録音に対応すると発表したんです。しかも、そのADボードにAT1201を使うとのこと、当時としては、かなり衝撃的な出来事でした。そこまで賭けるなら、AT1201はとんでもなく凄いのかもしれない、そんな期待がありました。

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仕事で使ったPyramix MassCore+Hapi x 2の16ch DSD256収録システム

・菅沼とARDA AT1201

とはいえ、DSD256録音が可能な最小構成であるMassCoreシステム+Hapiでも、導入には300万円以上が必要でした。学生時代の私には、とても手が出ません。一応、CPUネイティブで動作する構成もあり、そちらは150万円前後でしたが、当時のCPUネイティブ環境はかなり不安定だったため、現実的な選択肢ではありませんでした。

そんな折にエレクトロアートがARDA AT1201を使ったDSD256録音機を試作し、貸し出しもしているというのを聞き、飛びついたわけです。四日市ムセンの動画でもしゃべりましたが、当時は音楽制作現場に出入りしながら、見よう見まねで録音を重ねていた頃です。自分でもホールを借りて録音を重ねていましたから、バックアップとしてDSD256を録るという無茶なことをやりました。2014年3月25日のことです。

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右上がDSD録音機

録ったはいいものの、どう編集するかが問題でした。Pyramixは使えません。今となっては笑い話ですが、DSD128対応のKORG AudioGate 2に、DSD256ファイルのバイナリをDSD128に書き換えて読み込ませる、という方法を取りました。当然、そのままでは1/2倍速再生になってしまうため、再生機器のクロック入力に再生レートの倍速クロックを入れて等速再生する、というかなり無理な方法です。その直後にAudioGateが3へアップデートされましたが、この手法が使えたので、正直ほっとしました。使えなければ、Pyramixを買うしかなかったわけですから。

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AC 44 00=11,289,600Hz、56 22 00=5,644,800Hz

そんな無茶な方法でも、DSD256の異様な音の気配ははっきり分かりました。濃密さと鮮烈さを兼ね備えた、少し異様な音質です。これが広まりさえすれば、DSD256の時代が来る、当時は本気でそう確信していました。

・商業DSD256音源の始まり

商業作品としてのDSD256音源は、ゆっくりと増えていきました。まず、商業録音ではないものの外せないのが、1ビットオーディオコンソーシアムが公開していた WSD形式のDSD256音源です。冒頭にフルスケールDCが入っているなど、今考えると危うい音源ですが、そのインパクトは絶大でした。自作界隈でDSD256が盛り上がった背景には、この音源の存在があります。

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リリース日で言うと商業作品第1号は、2014年6月11日にEudora Recordsから出たRicardo Gallen / Fernando Sor, Guitar Sonatasでした。Eudora Recordsはこの作品がレーベル第1作目で、以降Pure DSD音源を出しています。

Pure DSDとは何かといえば、編集でフェードイン/フェードアウト以外を行わないものです。というのも、DSDが編集できないという仕様から、PyramixであってもDSDネイティブのまま一切の編集ができません。音量調整でさえ、全領域でDSD->DXD->DSDの再変換が行われてしまいます。ただし、2トラック用意し、各テイクをフェードイン/アウトでパンチインするだけなら、再変換はその部分だけで済み、大部分はDSDネイティブのまま残せます。

その後、2014年10月1日に出たのが丈青 / I See You While Playing The Pianoでした。バイノーラルマイクをアンビに使うという独特なマイクセッティングでしたが、DSD256の濃密さもあってセンター抜けは気になりません。その後はテープ起こし音源やDXDからの変換などが混在しつつもリリースが増え、2015年後半には100タイトルを超え、今では数え切れないほどの作品が出ています。

・ARDA AT1201特有の音

今となってはDSD256対応のADCチップは数多く出ていますが、DSD256録音黎明期を支えたのはARDA AT1201でした。ただ、エレクトロアートの録音機を借りたときに、簡単に特性を見てみたのですが、性能的にはさほど良くないといった印象でした。特にΔΣ変調特有の不安定さが強く残っているように見えました。でも、大きく見た時に性能の良さと音質というのは必ずしも相関しません。デジタル黎明期にTELARCなどで使われたSoundstreamも、DSD64対応ディスクリートADCのGrimm AD1も、その種の安定性は欠けていましたが、非常に濃密な音が録れるADCでした。

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Soundstream

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Grimm AD1

ARDA AT1201は2016年ごろには供給が途絶え、2017年にMergingはAKM AK5578ENを採用したADボードをリリースします。この新しいボードの録音を聞くと、ヌルっとした音質で良くも悪くも普通のデジタル録音の延長線上という印象です。ここで気づくわけです。DSD256の良さというよりもARDA AT1201の特異的な音を聴いていたんだなと。

いまMergingが何をやっているかというと、みなさんがDSD256を気にしなくなったのと同様、やはりPCMで革新的なことをやってなんぼという方向にシフトしたように見えます。 具体的には、ゲイン別にADCを2つ使ってダイナミックレンジを伸ばす方向です。最新のADボードでは、なんと139dBに達しています。Zoomが採用したデュアルADCを利用したFloat録音を、別の形で活用したものとも言えます。ちなみに、デュアルADCの仕組みを最初に採用したのはYAMAHAで、特許が切れたのを機に各社で採用が進みました。

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ところで、このデュアルADCの仕組み、DACにも利用できないかと以前から思っていたのですが、業務機メーカーのMillenniaがサブブランドImersivを立ち上げ、ダイナミックレンジ168dBというとんでもないDAC・D-1を出しています。

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閑話休題、そんなARDA AT1201ですが、1bitDSD256出力は特性があまりにも悪くエレクトロアートの録音機では、6bitDSD256出力から1bitDSD256を生成しています。Mergingは試験機では素の1bitDSD256出力を使っていたものの、正式リリースでは同様の処理を行っています。その試験機の音は、以下で聴くことができます。録音日で言うと、この2作品が最も早いのですね。

また、当時無料ダウンロード音源として2Lから出たMagnificatのTr.4が国内外で試聴に多く使われた印象がありますが、あれはDSD256録音でもなければ、Horus/Hapiの録音でもなく、一世代前のSphynx2を使ったDXD録音です。

・なぜ使っているADCが分かるのか

AT1201の大きな特徴の一つが、帯域外ノイズ(20kHz以上のノイズ)が異常に低いことです。ΔΣ型ADCチップは、可聴帯域のノイズを帯域外に追い出す、ノイズシェーピングを行うことでS/Nを稼ぎます。このノイズシェーピングの設計は、ADCチップごとに大きく異なります。

例えば、2LのMagnificatでは、Tr.7以前とTr.8以降で帯域外ノイズの様子がはっきり違います。これを観測すれば、ADCに何を使っているのかが分かるのですね。

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2L Magnificat Tr.4

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2L Magnificat Tr.9

さて、この帯域外ノイズですが、作品によってはかなり無頓着だったりします。自分のライブラリを見ても、帯域外ノイズが大きいADCを多用していたり、DSD64経路が混在していたりして、盛大に乗っているものが少なくありません。

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また、ハイレゾの海苔波形音源の中には、クリップして帯域外ノイズになってしまっているものもあります。

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帯域外ノイズは音声信号とは無関係ですから、本来は不要です。しかも、アンプ、スピーカーの相互変調歪みを引き起こし、可聴域にまで影響を及ぼしています。このハイレゾ音源、なんか濁って聴こえる、歪んで聴こえる、なんてことありませんかね。

もちろん、デジタル上でPCM48kHzなどに落とせばこの手のノイズはなくなるわけですが、DACはハイレゾで動作させたくありませんか。そういう時に使えるのがSonic CorrectorのANTI-ALIAS機能です。ANTI-ALIAS機能はアナログフィルターによって-40dB@40kHzという急峻なフィルターを搭載しているので、DACはハイレゾ動作させつつも、帯域外ノイズを遮断することができ、後段のアンプ・スピーカーの相互変調歪みの発生を抑えることができるのです。

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左がANTI-ALIASオフ、右がANTI-ALIASオン

・ついでに宣伝タイム、ESS ADCチップの特有の挙動について

ΔΣ型ADCチップの不安定性について上で触れましたが、具体的に言うと、突発的なパルス信号が入った時に変調が不安定になる、ざっくり言えばノイズフロア・歪み率が変動するということが挙げられます。これはADCチップ, DACチップに共通したΔΣ型の宿命であり、各社が工夫を凝らして安定化を図っています。

実際の録音・再生では、マイクのスルーレートの限界もあり、そこまで気にならないことが多いでしょう。ただ、最近は広帯域マイクも増えてきました。広帯域マイク+ハイスピードマイクプリの組み合わせで、ノンリミッターに近いドラムやパーカッションを聴くと、違いが分かりやすい場面があります。

この安定化の技術で今でも他社に抜き出ているのがESSです。DACチップで音は決まらないなんていいますが、大部分ではそうであっても、こういう局所的な特性に耳が行くようになると、聴くソースによっては一発でこのDACチップ使ってるんだなと分かるようになります。

実際にオーディオシステムでADCが問題になりやすいのは、レコードをデジタル化するときです。針を落とすときのノイズ、盤質や静電気によるプチプチノイズはΔΣ型ADCの天敵です。ESSのADCチップは、その点で極めて有利です。

・ファイルアーカイブはしないけども、このDACの音が好きだからレコードもこれで再生したい
・フォノも繋げられればDACプリ・パワーアンプ直結ができる
そんなときに便利なのがESSのADCチップを搭載したM2TECH Joplin MkIIIです。本国生産完了で最終ロットも売り切れ、国内在庫もない状態が続いていましたが、日本では人気なんだよとM2TECHのマルコ・マヌータ氏に伝えたところ、各国代理店から最終ロットのデッドストックを集めて日本に送ってくれました。記事公開時点で残り2台です!

ちなみに、デジタルフォノイコがどんなものか試してみたい、EQカーブ可変機能を手軽に使ってみたい、という方にはデジタル入出力はありませんが、AD/DAを内蔵して、フォノイン・ラインアウトができる、これもESSのADCチップを搭載したEvo PhonoDAC Twoという製品もあり、これも本国生産完了ですが、国内在庫ありです。

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・おわりに

DSD256は、結果として主流にはならなかったと言えるでしょう。Mergingをはじめ、各社がPCMをいかに拡張するかへ方針転換したことからも、それは読み取れます。しかし、DSD256黎明期にあるADCチップが生み出した特異な音を、私たちは確かに体験したと思うのです。

そんな時期に、音源と機器を局所的に意識しながら聴き込んだせいで、使われているADCチップやDACチップの特徴的な音に耳が向いてしまう癖がついています。良いのやら悪いのやら。

以上、少し昔話でした。